十に撰ばれ十のものを一に、早く聞分け申様にと思召され、御文にあそばしあらはされて、 凡夫の速に仏道なる事を仰立てられたる事にてさふらふ。開山聖人の御勘化今一天四海に ひろまり申事は、蓮如上人の御念力によりたる事候也。 右斯文どもは、文明第三之比より同き第五之秋の時分まで、天性こゝろにうかむまゝに、 何の分別もなく連々に筆をそめおきつる文どもなり。さだめて文体のおかしきこともありぬべし。 またことばなんどのつゞかぬこともあるべし。 かたがたしかるべからざるあひだ、その斟酌 をなすといへども、すでにこの一帖の料紙をこしらへて書写せしむるあひだ、 ちからなくまづゆるしおくものなり。外見の儀くれぐれあるべからざる。たゞ自然のとき 自要ばかりにこれをそなへらるべきものなり。あなかしこあなかしこ。 于時文明第五九月廿三日に藤島郷の内林之郷超勝寺において、この端書 を蓮崇所望のあひだ、同27日申の剋にいたりて筆をそめおはりぬ。 釈 蓮 如 在御判 吉崎殿へ望申、茶所に侍て物をよみ手習をし、 一文字をも不知仁にて侍しか、よるよる学問を心にかけ手習をして、四十の年より物を書、 真物を書習、 正教等まて令書写候て浄土法門心にかけ、才学の身と成りて吉崎殿御内へ望申、 奉公を一段心に入られしまゝ、蓮如上人御意にも叶、丹後玄永はうばへ(朋輩)と成て、 安芸安芸とめされ一段秀でたる事に侍り。 法門御意をも得られける程に人々も近付聴聞し侍り、門徒も出来侍り。 ・・・・・然処、安芸法眼いよいよ威勢分限出来、吉崎殿寺内安芸居住の処には 土蔵十三立、一門繁昌の事にて、則越前の朝倉弾正左衛門法名英林と申者聞及、 名字の庶子になし、阿と名乗。令上洛、将軍慈照院殿御被官分に成候て、 奉公は壱分と定られ、数度御内書等被成候。 則法眼とは将軍より被成候。法橋とは於吉崎御成候。ぬり輿の御免も将軍家より被仰付、従其は鞍覆、 唐笠袋まて武家御所より御免候き。左候間、於吉崎威勢かきりなく、・・・・・ 御兄弟以下御申しには、一度仏法にあたをなし申候人に候へばいかゞ、と御申候へば、仰られ候、 それぞとよ、あさましきことをいふよ。心中だになをらば、何たるものなりとも、 御もらしなきことに候、と仰られて御赦免候き。その時御前へまひり、 御目にかゝられ候とき、感涙畳にうかみ候と云々、而して御中陰の中に蓮崇も寺内にてすぎられ候。 |