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浄土真宗本願寺派 本願寺 2005/9
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下線付き文字 をマウスで指示すると読み仮名或いは注釈が表示されます しかし、聖人はご自身の経歴については、ご本典(『顕浄土真実教 行証文類』)の「化身土巻六」の後序(『註釈版聖典』第二版四七一〜 四七三頁)に、まず「承元の法難」の経緯を詳細に記され、ついで源 空聖人のもとで本願を信じ念仏する身となられたこと、『選択本願念 仏集』と影像をたまわったことを記しておられるだけで、その他の出 来事は述べておられません。 聖人のご経歴とご教化の空白の部分を明らかにしたのが、内室恵信 尼さまのお手紙(『恵信尼消息』)と、門弟の唯円が書いた『歎異抄』 でした。 聖人の曾孫覚如上人は、ご本典・『恵信尼消息』・『歎異抄』に記さ れた聖人のご事績と、みずから東国の聖人のご遺蹟を訪ねて遺弟たち から聞き取り調査を行った成果をとりまとめた聖人の伝記絵巻『本願 寺聖人親鸞伝絵』(その詞書をまとめたのが『御伝鈔』)を作製しまし た。それは聖人の三十三回忌の翌年、永仁三年(一二九五)のことで す。この『御伝鈔』は、親鸞聖人の最も信頼できる伝記といえます。 聖人は比叡山の二十年間にわたる修行に、さとりを得ることができ ず、建仁元年(一二〇一)二十九歳のとき、山を下り六角堂に百日の 参籠を志し、身の処し方について教えを請われました。九十五日目の 明け方に、聖徳太子が現われて、偈文をとなえて行くべき道を示され ました。この太子の指示にしたがい源空聖人のもとをたずねられたの でした。 『恵信尼消息』の、聖人が六角堂に参籠されたことをしるした文中 には、太子示現の文を別紙に書いて書状に添えて覚信尼さま(親鸞聖 人の末娘)に送ったとあります(『註釈版聖典』第二版八一四頁)が、 その別紙は紛失していて、偈文がどのような内容であったかはわかり ません。 太子のすすめにより聖人は源空聖人のもとへ百日の間、仏法聴聞に 通われて、ついにお念仏をよろこぶ身となられました。 このことを聖人はご本典に「しかるに愚禿釈の鸞、建仁辛酉の暦、 雑行を棄てて本願に帰す」(『註釈版聖典』第二版四七二頁)と記して おられます。 聖人三十一歳の建仁三年(一二〇三)四月五日の夜、六角堂の救世 観音菩薩の夢告がありました。(『御伝鈔』〔『註釈版聖典』一〇四四〜 一〇四六頁〕)それは「仏道を修行する者が、何かの縁によって、女 性と結ばれることがあるならば、わたくしがその女性になりかわり一 生の間、仲よくし、臨終には極楽浄土へ一緒に参りましょう」という 内容でした。 聖人はこの夢告を得て、やがて恵信尼さまと結婚され、妻子ととも に過ごす在家の生活を続けつつ、仏法に生かされる道を見出されたの でした。 聖人三十三歳の元久二年(一二〇五)に源空聖人の著された『選択 本願念仏集』の書写と師聖人の影像を授かりました。このことは師匠 の教えを正しく受け継ぐ門弟だけが許されることです。 弘仁元年(八〇九)、嵯峨天皇は死罪を廃止されました。しかし、 親鸞聖人がご誕生になる十七年前の保元元年(一一五六)に起こった 「保元の乱」に死罪が三四六年ぶりに復活し、いらい源平両氏の争い に死罪が行われました。しかし、罪のない僧を死罪や流罪にすること は前代未聞の不法行為で、親鸞聖人はこのことを強く批判されたので した。 上野(群馬県)佐貫に滞在しておられたときの出来事が恵信尼さま のお手紙(『恵信尼消息』〔『註釈版聖典』第二版八一五〜八一七頁〕) にみえています。それは聖人が人びとの幸せを願って、『浄土三部経』 を千部、読もうと思いたち、はじめられました。しかし、念仏者にと って称名よりほかになすべきことなく、念仏によって救われることを 一人でも多くの人に伝えることが人びとに幸せを分かち合うことにな るのだと思い返して、読経を中止されました。 それから十七年後の寛喜三年(一二三一)に聖人は風邪で発熱され たとき、『大無量寿経』を読むご自身の姿に気づかれました。どうし たことかとかえりみますと、ずっと以前に『三部経』を千部読もうと して中断したことがあったが、あの時のお経を読もうとした心がまだ 少し残っていたのかと思われ、人の執心、自力の心は容易にぬぐい去 ることができないことを知らされたと、聖人は恵信尼さまに語られた ということです。 聖人は東国各地で二十年余り伝道に努められた結果、多くの門弟や 門徒が浄土真宗に帰依しました。その門弟の名簿『親鸞聖人門侶交 名帳』には四十八人の名がしるされています。この名簿以外に、聖 人のお手紙などに三十人ほどの名がみえますので、聖人から直接教え を受けた直弟子は百人ちかくになります。さらに直弟子にはそれぞれ 数十人の門徒がいましたので、それらを合算しますとかなり多人数に なります。 聖人は「弟子一人ももたず候ふ」(『歎異抄』〔『註釈版聖典』第二版 八三五頁〕)といわれて、ともに念仏する者はみな仏の弟子で、同 行・同朋であり、師弟上下の関係によって規律する教団の形成は望ま れませんでした。 しかし、聖人の晩年に東国の念仏者の中に教義を誤解したり、秩序 をみだす者が出ると、正しい念仏を護るために念仏者の連帯強化を要 請されました。 その念仏者の連帯は有力な直弟子を中心に結集し、直弟子の居住す る地名を集団の名称としました。たとえば、下野(栃木県)高田の真 仏を中心とする集団は高田門徒、下総(茨城県)横曽根の性信を中心 とする集団は横曽根門徒と称しました。 聖人が帰京された理由の一つにご本典の完成が挙げられます。聖人 は東国ご教化のかたわら、ご本典の執筆をはじめられ、身辺にたずさ えて絶えず修正を加えられ、寛元五年(一二四七)聖人七十五歳のこ ろにその作業を終えられました。 聖人は念仏の喜びを和讃(うた)に託して人びとに伝えようと、宝 治二年(一二四八)に『浄土和讃』と『高僧和讃』を、十年後に『正 像末和讃』をつくられました。 またご消息(お手紙)によって東国門弟のご教化につとめられまし た。聖人八十八歳の文応元年(一二六〇)十一月十二日付の常陸(茨 城県)の乗信房に宛てたご消息(『註釈版聖典』第二版七七一〜七七 二頁)に、「去年・今年、老少男女おほくのひとびとの死にあひて候 ふらんことこそ、あはれに候へ。ただし生死無常のことわり、くはし く如来の説きおかせおはしまして候ふうへは、おどろきおぼしめすべ からず候ふ。まず善信(親鸞)が身には、臨終の善悪をば申さず、信 心決定のひとは、疑なければ正定聚に住することにて候ふなり」とし るしておられます。 聖人は二年後の弘長二年十一月二十八日(一二六三年一月十六日) 九十歳でご往生になられました。 |