思い出深き念仏者
(連載第1回 自照社出版 自照同人 第15号 2003/3)
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♦はじめに
♦若き念仏者たち
♦少年の目に映った念仏者たち
♦渋柿が甘くなるには
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はじめに
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『自照同人』の編集者から、前記のタイトルで執筆してほしいとの依頼がありました。しかし、
これについては、先年
『倶会一処−
私が出会った念仏者たち−』(2000年8月・百華苑刊)を
出版していましたので、お引き受けしかねると申しました。すると、なにか別のタイトルでも
よいからぜひ原稿を、という強い要請がありました。そこで、さてなにを書こうかと思案しつつ
『倶会一処』を再読してみると、この本に記さなかった念仏者がおられるので、それらの方たち
についての思い出を記すことにしました。なお文章の構成上、『倶会一処』と重複するところ
がありますが、お許し願います。
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若き念仏者たち
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1930年(昭和5)、私が小学校三年生の時、父
の住持する寺
(徳島県美馬郡
美馬町郡里・安楽寺)に京都から数人の若い念仏者が来まし
た。花田正夫・
宮地廓慧のお二人と、あとのお二人の名前を忘れましたが、
たぶん松本解雄・
東元多郎の合計四人であったと思います。いずれも京都大学や龍谷大学などの学生
で、横田慶哉先生
の教えを受けた若い念仏者でした。
私の父隆範は寺の住職としての自身のありように疑問をもち、深く思い悩むとともに、肉体
も十二指腸
潰瘍をわずらう、心身ともに苦しい日々を送っていました。友人
の和田義龍師の
すすめで、京都府綴喜郡
上津屋(現・八幡
市)の善照
寺の横田慶哉先生のもとをたずねて教え
を請いましたが、
悩みを解決することはできませんでした。このころ母定子は和田師の導きによって、如来のご恩
を信奉する身とならせ
ていただきました。妻の念仏を喜ぶ姿を見て、父は強いあせり
を覚えたようです。身につけていた布袍・
輪袈裟を脱ぎ捨て、俗服の姿となり、必死の思いで
再度横田先生をたずね、ついに疑念を晴らすことができたのでした。
父の寺を訪れた学生さんたちは、大学の夏休みに、父の要請によってご門徒さんに仏法を
説くために来てくださったのです。私にはその法話の内容は理解できませんでしたが、強い信念
にもとづく烈しい
気概を感じました。
これは彼らが師と仰ぐ横田先生の気風を受け継ぐものでした。横田先生の教化について、
そのころ京都大学の学生であった東
昇氏(元日本ヴィールス学会長)は著書『力の限界−自然科学と宗教』の中に
つぎのようにしるしておられます。
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私は一日、横田慶哉師の説法を聞いたことがあ
る。炯々た
る眼光、声高らかな念仏もろとも仏の慈
悲を説き去り説き来た
る舌端火を吐く大説
教、日蓮上人の
辻説法もかくぞやの大獅子
吼であった。聞き入る参詣衆は、念仏のルツボにたたきこまれ、文字通
り法雨にぬれてい
る。法悦にしびれきってい
る。随喜して南無阿弥陀仏
を高らかに唱え、それは念仏
の大合唱となり堂もわれんばかりだった。私はそのただなら
ぬ雰囲気に
まったく呑まれ、圧倒
された。生れて始めて聞いた大説法だった。
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横田門下につどった学生は、羽渓了
諦先生が司
寮をしていた京都下
鴨の学生宿舎「知四
明寮」の寮生が中心でした。そのころ寮には父の寺に来てくださった花田・宮地・
松本の三氏のほ
か、
川畑愛義・長谷顕性・西元宗助・田村実造・向島諦宣等
の、後に学界をリードする人たちがいました。それら寮生の中の横田先生に共感する人たちは学生親鸞会
を結成して、真実信心を追究したのでした。
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少年の目に映った念仏者たち
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京都から来た若い念仏者の説く話の内容は、私には難しくて理解できませんでしたが、その熱烈な
話しぶりは、今も目に浮かびます。
しかし、この時は若い念仏者と一緒に吉野川へ泳ぎに行ったときの出来事が心に焼きついています。
寺から川まで三百メートルほどの稲田の道を通り、雑木林をぬけると清流があります。熱くやけた河原
の石の上に服をぬぎ、ふだんは浅瀬の川底に足のとどくところで泳いでいました。ところがこの日、
学生さんたちは川中の急流を泳ぎ下ろうということで、私にも一緒に来るよう誘うの
です。私は両親から急流を泳ぐことを厳しく禁じられており、心中にも恐怖
を抱いていたので、
いやだといいました。すると「僕たちが一緒に泳いであげるから大丈夫だよ」というので、私も承知しました。
そして彼らは私の周囲を取り囲んでくれ、一緒に急流を下ったのでした。なぜかこれが今に
強い印象として残っています。このことを思い起こすにつけて、あの川を泳いだときのように、
今の私は弥陀・観音
・勢至さまたちに囲
繞され守られてこの苦
海を泳ぎわたらせていただいているのだということを感じるのです。
若い学生さんの舌鋒火
を吐くような法話は、難解でした。しかし和田義龍師のお話は、私にもわかるやさしい内容
の因縁譚で、涙を流し
ながら聞きました。他人に涙をみられるのが恥ずかしくて、母の横でうつむいて座っていたのでした。
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渋柿が甘くなるには
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和田義龍師が穏和に諄々と
説法されたのに対し、子息の哲
龍さんは激しい気
性の熱血漢でした。私が龍谷大学の入試で上洛したとき、哲龍さんは文学部に
在籍中で、京都駅まで迎えにきてくださり、彼の下宿に泊めていただきました。
幸い私は試験に合格し、入学しますと、哲龍さんはしばしば法話会に誘ってくださいました。
哲龍さんは横田門下の急先鋒の論客で、自分と異なる考えに
は執拗に質問し、論争
を挑んでいました。
ある晩、私は哲龍さんに連れられて桐
渓順忍先生の法話会に出席しました。このときも哲龍さんは信心
の覚知の問題について質問しました。
もともと横田先生は、「信心とは、あるようでないような、あいまいなものではなく、人信は絶対他力の確信
と歓喜がともなうものである」
ということを強調しておられ、哲龍さんの質問は、この師説をうけてのものでした。
このとき桐渓先生は「信を獲ると
いうことを、渋柿が
甘くなるということにたとえると、それには二通りあります。渋柿を薬品などで
一気に甘くする方法と、長いあいだ日光に照らされているあいだにいつの間にか甘くなっているというのも
あります」という趣旨の回答をされました。私は桐渓先生のお答えに大
変感銘を受けました。
後年、1967年(昭和42)の頃、桐渓先生は龍谷大学の東京駐在ということで築地別院
の新館に住んでおられました。たまたま私も東京大学史料編纂所に内地留学し、新館に泊めて
いただいていましたので、先生にお会いすることが多くなりました。
あるとき、先生にこのときの渋柿″の話をして、「私はいまだに渋が抜けません」と申しますと、
先生はただ微笑されるだけでした。私はその微笑の中に、
「無碍光に照らされると、
抜けない渋はありませんよ」とのお答えを感じたのでした。
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千葉乗隆 ちばじょうりゆう
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1921年、徳島県に生まれる。龍谷大学文学部国史科卒業。元龍谷大学
学長。現在、本願寺史料研究所所長、国際仏教文化協会理事長、徳島県安
楽寺住職。主な著書に「本願寺ものがたり」「蓮如上人ものがたり」「親鸞
聖人ものがたり」「真宗重宝聚英」(共著)「講座蓮如」(共著)などがある。
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